無事な姿で

どれほど相手が強くて悪魔のやうでも、永い間には油断といふものがあるから夫が小男を刺し殺して、無事な姿で村にかへつてくることが出来るかもしれない――と妻ははかない望みをいだきながら、夫の酋長を送り出しましたが、もし一生逢へなかつたら――と思ふと悲しみが一度にこみあげてきました。 それにしても、夫をうばひ取つて、肩をいからし、戸口を出て行くこの小男のなんといふ憎らしさだらう、その何物もをそれぬ大胆不敵の小男の後姿を見ると、たまらなく小男が憎らしくなつて、その場にわつと泣きくづれました。 それから涙にぬれた顔をあげ、夫の酋長を連れて行く小男の後姿にむかつて、べつと唾をはきかけ、それから口から出まかせに『腐れイタダニ奴――』とのゝしりました。 これはアイヌの仲間が相手を悪く云ふときに『腐れ――』と云ふのです、『尻の腐つた奴――』などと云ふのは、一番の悪口です、酋長の妻も小男があまり憎らしかつたので思はずかういひました。 するとどうしたことでせうか、小男は丁度電気にでもうたれたやうに、『あつ――』と小さな叫び声をあげて、もんどりうつてひつくり返りました、それからその場を転げまはつて苦しみはじめました。 あつけにとられてゐる酋長夫婦と村人達の前に、小男は死んでしまひました、そして不思議なことには、足の先からだん/\と氷があたゝめられたやうに、身体がとけ始めました。身体が全部とけてしまつて、地面の上に残つたものは『腐つたイタダニ』でした。イタダニといふのはアイヌ達がお台所で使ふマナイタのことです。 その夜、酋長は寝床に入る前に、神様にむかつて、この謎のやうな出来事のわけをきかせて下さい――とお祈りをしてから、眠りました。すると酋長の夢枕に、赤い着物をきた、『マナイタの神様』の姿があらはれました、そしてマナイタの神様は酋長にむかつて、語り出しました。 何百年も大昔のことでした、アイヌ達の先祖に大変に勇気のある神様がをりました。山から山へ、谷から谷に、たつた一人で分け入つて、熊や狼やさま/″\の獣の猟をしてゐました、谷底に松の枝で狩小屋を作り、神様はそこで寝起きしました、その小屋を根城にして、朝早く外に出かけ、一日中山を走りまはつて、夕方には背負ひきれないほど獣をたくさん猟をして、山小屋へ帰つて来ました。 

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