夕焼色の雲の断片

夕焼色の雲の断片

或るとき私はたくさんの血を吐いた、意地の悪い悪魔が肉体の中にかくれてゐて私に生命の自覚を与へようとするかのやうに――、べつべつと唾をするたびにいつまでも執念ぶかく血がとびだした、すると私はそのとき驚ろきもしない悪魔よりも一層意地悪になつて悪魔よりも一層執念ぶかくいつまでも赤い唾を吐いてゐた、私はそのとき位幸福を味つたことがない――すべてが運命通りにやつてきたさう思ふと運命といふものは空間の中をもつともリズミカルに踊つてすぎる『時』といふものだと考へついた、それから心も体も調子づき友達にも愛そが良くなり、自分もたまらなく可愛くなつた、それからはポケットに三枚もハンカチを用意して外出するほど用心ぶかくもなつた染物屋のかめのやうなものが私の体の中にあるいつ私がハンカチを染めるかわからない私はおどろかないが他人を驚ろかさないやうにするためにはあんまり体をゆすつたり駈けたりできない、心の中から宿命的なものがみんな逃げだしてしまつたまもなく病気を忘れることに成功してハンカチも忘れて外出した味方はもう沢山だ、生きてゐる間にむしやぶりつく敵を発見することに熱心になりだした心をうちつけたところで無数な鈴が鳴るやうに思ふのは味方のためには銀の音敵にとつては狼の歯の音、私は生きてゐる自覚を悪魔から[#「から」に「ママ」の注記]与へたことを奴に感謝しよう、をえつもなくすぎた人生ではなかつた、悲哀もとほりすぎたやうだ、のこされたものは何もないただ吐きだす唾だけとなつた、しかも生命の自覚にこゝろをどるそれは小さな無数の夕焼け色をした雲の断片のやうなものだ、生命、愛、貧困、闘ひ、あゝ、私のためのものはすべて終つたやうだ、いまは強く唾を吐き良き敵を求めることだけとなつた(一三、一一、八夜)

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