南京豆

去年の夏辛うじてわずかに卒業し得た位です。それも今から考えてみると全く教師のお情けでしょう、試験の得点は落第点と殆《ほとん》ど間髪を容《い》れず卒業者中最後の末位でした、アハハ。しかし持ったが病《やまい》でまだ大食は廃《や》められません。悪いと知りつつどうしても自ら制する事が出来ません。今朝なんぞは雑煮餅の大きいのを十八|片《きれ》食べました」妻君「オホホ、貴君《あなた》が物を召上るのはホントにお美事《みごと》です。何を拵《こしら》えても貴君に食べて戴くと張合《はりあい》があります。そのつもりで今珍らしい御馳走を拵えておりますからどうぞ沢山召上って下さい」客「イヤ、モー控えましょう。そんなに戴くと胃吉や腸蔵がどんなに怒るか知れません、だがしかし大層好い匂いがしますな、非常に香《こうば》しくってさも美味《おいし》そうな匂いが」と頻に鼻を蠢《うごめ》かす。妻君笑いながら「貴君が今まで召上った事のないという御馳走です、好い匂いでしょう、あれは南京豆です、只今《ただいま》南京豆のお汁粉というものを差上ます」客「ヘイ南京豆のお汁粉とは珍らしい、どうして拵えるのです」妻君「なかなか手数はかかりますけれども手数をかけただけの御馳走になります。失礼ながら台所へ来て御覧なさい。貴君も今に奥さんをお持ちなさるとこんな事を覚えておおきなさる方がお徳です」客「いかにも後学《こうがく》のためだ、一つ拝見致しましょう」妻君「拝見ばかりではいけません、少し手伝って下さい」客「ハイハイお手伝を致しましょう」と仲|好《よ》き友達の家と見えて遠慮もなく台所へ立って行く。

[#4字下げ]第四 南京豆[#「第四 南京豆」は中見出し]

 台所といえば黒くくすぶりてむさ苦しきように聞ゆれどもこの家の台所は妻君が自慢顔に客を連れ込むほどありて平生《へいぜい》の綺麗好《きれいず》きさこそと思われ、拭掃除《ふきそうじ》も行届き竈《かまど》も板の間も光り輝くばかり。その代り目の廻るほど忙しきは下女の役、一人は頻《しきり》に南京豆を炮烙《ほうろく》にて炒《い》り、一人は摺鉢《すりばち》にて搗砕《つきくだ》く。妻君客を顧《かえり》み「大原さん、私どもでは毎日南京豆を色々の料理に使います。今まで胡桃《くるみ》を使う代りに南京豆、胡麻《ごま》を使う代りにも南京豆、胡麻|和《あ》えという所も南京豆和えという風《ふう》にしますが南京豆の方が胡桃よりも淡泊で或る場合には胡麻よりもよほど美味《おい》しゅうございます。もっとも南京豆の中でも粒の極《ご》く大きいものや円《まる》い形状《かっこう》のものは脂肪《あぶら》が多くって油を取るにはようございますけれども食用に適しません。少し細長い中位な粒ので大層美味しい種類があります。それを先《ま》ず厚皮を剥《む》いて中の実ばかりこの通り炮烙で炒ります」客「なるほど、この匂いが今私の鼻を衝《つい》たのですね。市中で売っている南京豆は厚皮のまま炒ってあるでありませんか」妻君「あれは細《こまか》い砂を交《まぜ》て砂と一所に炒るのです。非常に時間がかかって料理用の間に合《あい》ませんから軽便法《けいべんほう》で剥いた者を炒りますけれどもこれも強い火で炒ると外面焦《うわこげ》がして中へ火が通《とおり》ません。弱い火で気長に炒るのです。

— posted by id at 12:53 pm  

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