豚の刺身

○豚の生肉には肉類の寄生物中最も恐ろしき旋毛虫および嚢虫《のうちゅう》あり。人もし半熟の豚肉を食すれば旋毛虫体内に発育して大害を招く。また嚢虫は人体に入りて絛虫《さなだ》と化す。○豚の刺身を上等に製するは最初肉片の両側へ塩を塗り、鉄串にて肉に孔を明け、塩の中へ浸み込むようになし、本文の如く湯煮て後そのまま煮汁の中へ一昼夜漬けおき、翌日取出して煮醤油へ漬けるなり。かくすれば味一層よし。○本文中各項に出ずる献立は新しき料理法を示さんとする主意にて無理なる配合多し。読者それ心して見るべし。[#ここで字下げ終わり]

[#4字下げ]第十 豚の刺身[#「第十 豚の刺身」は中見出し]

 客の大原は腹中新に食物を容《い》るるの余地なけれども心に期する所ありて無理に箸《はし》を執《と》り「なるほどこの汁は美味《うま》い、色々野菜も交っているがこの豚は口へ入って溶けるようだね」主人「それは琉球の塩豚だもの。琉球の塩豚は有名なもので牛肉なんぞより数倍した御馳走だぜ。豚だ位に軽蔑されては困る」大原「イヤどうして軽蔑が出来るものか、琉球も豚は上等かね」主人「種が支那から来ているし飼養法《しようほう》も進んでいるから琉球豚は上等だよ」大原「どうして支那豚はそんなに良《い》いだろう、やっぱり種類を改良したのかね」主人「勿論《もちろん》古来から食用にしていて良い種類を繁殖させた結果もあろうが一つには地勢にあるそうだ。第一豚の元祖たる猪《いのしし》の肉が欧羅巴辺《よーろっぱへん》のは非常に不味《まずく》って支那のは非常に美味いそうだ。欧羅巴は土地が平坦でないから猪が常に筋肉を労してその肉が硬い。支那は地勢上猪までノソリノソリと育《そだつ》から肉が美味い。豚は猪を家畜にしたものだ。欧羅巴の豚も最初は猪の通りに肉が硬《こわ》かったのを支那豚を輸入して今のように改良を加えたものだ」大原「なるほどね、一口に豚というが豚にも色々区別がある。この刺身のようになっているのも大層美味いがこれはどうしたのだ」主人「それは豚の刺身と称するが君のような下宿屋生活でも一度|拵《こしら》えておくと五日も六日も持つから試してみ給え。訳はないよ。先ず豚の三枚肉の上等を買ってそのまま大きな鍋へ入れてよく湯煮《ゆで》る。その肉片《にくへん》の大きさによって一時間から二時間も湯煮ると杉箸がスーッと楽に透る、それがちょうど適度だ。その時一方の大きな丼鉢《どんぶりばち》へ上等の醤油《しょうゆ》ばかり注《つ》いで今の湯煮た肉を直《す》ぐに漬けておく。それが一日も過ぎると醤油が肉に浸みて美《うま》い味になる。イザ食べようという時|小口《こぐち》から極《ご》く薄く切って溶《と》き芥子《からし》を添えるのだ。一つ試してみ給え、一番|軽便《けいべん》の豚料理だ。しかし僕の家《うち》のは少し贅沢《ぜいたく》にそれをまた一時間ほどテンピに入れて蒸焼《むしやき》にしたのさ」大原「テンピとは何だ」主人「俗にいう軽便暖炉だ。しかし君らが使うにはカステラ鍋で沢山だよ、小さいから火が少しで済む。その鍋の中へスポリと入る位なブリキの皿のようなものを造ってそれを鍋に入れて上下《うえした》へ火を置けば牛肉のロースも出来るし大概な西洋菓子も出来る」大原「早速そのお刺身を遣《や》ってみよう。此方《こっち》の皿にある細《こまか》いものは大層サッパリとしているが何だね」主人「それは豚のソボロといって豚の嫌いな人にでも食べられる。本式にするとソボロ俎板《まないた》

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