脳と胃

[#4字下げ]第十三 脳と胃[#「第十三 脳と胃」は中見出し]

 大食の弊害は天下に満てり。国の文野《ぶんや》を知らんと欲せば先ずその人民の食物を検すべし。主人の中川も慨然《がいぜん》として「大原君お強鉢《しいばち》の事は予《か》ねて話に聞いていたが実際そんなものか。しかしそれでよく生きていられるね、胃袋が破裂せんで生命を保てるね。そういう大食の人でも六十や七十まで生きられるかしらん」大原「生きるから妙だ。七十八十になってもまだ若い者に負けないほど食う人がある。その代り満身の営養分を胃袋へ消費してしまう。脳なぞは更に発育せん。智識も進まず思慮も出ず、脳力はまるで働かずに死ぬまで胃袋の御奉公をしてしまう。全体人は生きているために食物を喫するけれども大食の者は食うために生きておるのだ。あれで脳を使ったらとても生きておられんよ。よく注意して見給え、大食の人は必ず脳が鈍い。脳病に悩む人は大概胃を壊すからだ。第一僕が何より証拠ではないか。君らと同じように大学へ入って試験のたびに落第して三年も後《おく》れて僅《わずか》に卒業し得たのは全く脳が鈍いからだ」と自分を以《もっ》て例となす。これほど確《たしか》な説はなし。中川も笑い出し「それほどよく知っているならチット食物を控えたらよかろう。脳の鈍いのはあんまり自慢にもならんでないか」大原「それがね、飲酒家《さけのみ》の禁酒と同じ事で悪いと知りつつなかなか廃《や》められん。自分でもよく知っているが食物に向うとどうしても制する事が出来ん。腹一杯に飽食《ほうしょく》した後は気が重くなって暫《しば》らく茫然《ぼうぜん》として脳の働らきは一時全く休止するのがよく分かるよ。それは全く全身の血液が胃袋へばかり聚中《しゅうちゅう》して脳へ送るべき血液が空虚になるからだね。譬《たと》えて言えば脳の機械へ注《さ》すべき油を胃の方へ取ってしまうからだね」中川「サア大体においてはそうに違いないが、近頃研究したる最新の学説によると多食した後《のち》に脳の鈍くなるのは食物の中毒作用というね。化学上の研究からその新事実が発見されたけれども妙なものさ。どんな食物でも人の体中へ入ると間断なく化学作用を起している。決して空然《くうぜん》と遊んでいるものはない。健全の胃へ適度の分量だけ入った食物は直ちに消化されるけれどもその以上の食物は胃の消化作用を受けない。受けないといってボンヤリとしていない。食物自身が一種の腐敗作用を起し中毒性の物と変じて直接に脳神経を刺撃する。それがために脳の働らきが鈍くなって気が重くなるような睡《ねむ》くなるような心持《こころも》ちがするのだそうだ」大原「なるほどそうかしらん、少々気味が悪いね」中川「ところが君のように毎日食物中毒を起していては脳が疾《とく》に消えて亡《な》くならなければならん。そこには御方便な事がある。人体の喉《のど》に甲状腺といって大きな筋がある。今までは何の効用をなす筋だか分らないで不用な贅物《ぜいぶつ》に数えられた。しかるに近頃の研究で甲状腺は全く食物の中毒作用を防禦《ぼうぎょ》する大効能がある事を発見した。常に食物の消毒作用解毒作用をなして脳を保護する大忠臣だと解った。ちょうど今まで無用視された副腎《ふくじん》が澱粉《でんぷん》消化の大効用ありと知られたようなものだ。して見ると君が脳の全く自滅してしまわないのは甲状腺のお蔭かもしれないぜ」大原「ありがたい訳だな。お登和さん、こんなお話しを聞くと少々心細くなりましたからモー晩餐《ごぜん》はお終《しま》いにしましょう。どうぞお茶を頂戴《ちょうだい》」お登和|微笑《ほほえ》み「差上げたくってもモー種が尽きました、残らず貴君《あなた》が召上っておしまいで。オホホそれでもお皿だけは残りました」と娘もなかなか戯言《しゃれ》を言う。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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