名物

[#4字下げ]第二十六 名物[#「第二十六 名物」は中見出し]

 夕暮に及びて当家の主人は旅先より帰り来りぬ。待兼《まちか》ねたるは妻君よりも客の大原、早く我が頼み事を言出さんと思えども主人の小山|携《たずさ》え来れる大荷物を披《ひら》くに忙《せわ》しくて大原にまで手伝いを頼み「大原君、君もそっちの縄を釈《と》いてくれ給え、僕は今度|到《いた》る処《ところ》の名物を買い込んで来たよ。最初先ず三島から豆相鉄道《ずそうてつどう》へ乗かえて修善寺《しゅぜんじ》の温泉へ往《い》ったが修善寺名物の椎茸《しいたけ》を沢山買って来た。しかるに椎茸の産地へ行って初めて驚いた事がある。今まで僕らが東京で上等の椎茸と思っていた笠の大きな色の薄赤いのは最下等の種類だね。最上等のはここへ持って来た寒子《かんこ》の蝶花形《ちょうはながた》といって肉の厚い笠の小さいのだ。この上等品は秋から冬にかけて発生するのだが悉《ことごと》く横浜へ出して支那へ輸出してしまう。伊豆《いず》一国から毎年二十万円位の椎茸を輸出するそうだ。春子《はるご》というのは沢山発生して価《ね》も廉《やす》い。それが向うでは東京廻しといって最下等品だ。その代り春子の出盛《でさか》りは一升五、六銭で買えるようになる。寒子は一升四十銭位だ。しかるに乾《ほ》した椎茸を目方にかけてみると寒子の一升と春子の六、七升と同じだから正味の直段《ねだん》は違わない。見給え、これが寒子の生椎茸だ。肉が厚くって表に蝶花形が現われているだろう。松茸《まつだけ》と同じように開かないのが上等だ。これを料理して食べると実に美味《うま》いぜ。それから天城山《あまぎざん》の山葵《わさび》も買って来た。山葵は天城《あまぎ》が第一等だね。天城の山葵は卸したものを醤油へ入れても粘着力が強くって容易に散らない。箱根の山葵は直ぐに散る。同じ山葵でもそういう違いがあるそうだ。修善寺から熱海《あたみ》へ出て名物のポンスを買って小田原と大磯へ寄って来たが小田原の梅干《うめぼし》も三樽買って来た。小田原の紫蘇巻《しそまき》梅干は梅の実も肉が厚くって種離れがよくって皮が薄くって格別だけれどもそれを巻いた紫蘇が小田原の特産だそうだ。東京へその種を播《ま》いてもあんな上等の色の紫蘇が出来ないというね。この柚餅《ゆもち》も大久保家伝来の名物だ。ここに磯松風《いそまつかぜ》という小田原の菓子がある。これは非常に上品で高貴の人の賞翫《しょうがん》を受けるそうだ。その外《ほか》に箱根の自然薯煎餅《じねんじょせんべい》、小田原の蒲鉾《かまぼこ》、しおから、牛蒡《ごぼう》の砂糖漬なんぞは皆《み》んな小田原で買ったのだし、大磯では虎子饅頭《とらこまんじゅう》の外に近頃新製の小饅頭も買って来た。この曲物《まげもの》は塩見の甘酒《あまざけ》、竹の皮へ包んだのが踏切のけわい団子《だんご》といって家《うち》こそ不潔《きたな》いけれども大磯第一の名物だ。僕はモー少し猶予があれば片瀬へ寄って竜《たつ》の口饅頭《くちまんじゅう》を買って鎌倉で力餅《ちからもち》を買って、浦賀へ廻って日本一の水飴を買って、金沢で藻《も》ズクを買って来ようと思ったがそうは廻り切れなかった」とこの人は諸国の名物を買うのが道楽。大原も土産物《みやげもの》の饒多《じょうた》なるに一驚《いっきょう》し「小山君、君はこんなに色々の物を買込んでどうするつもりだ」小山「これには少し理由がある。中川君の妹のお登和さんという人が長崎じこみの料理自慢だから僕は一品ずつ中川君の家へ持って行ってお登和さんに食べさせたい」大原飛立つばかりに「ウムそのお登和さんお登和さん、僕はお登和さんの事で君の帰るのを先刻《さっき》から待っていたよ」とこの機に乗じて我が心事《しんじ》を語り出《い》ずる。妻君が二人の前に晩餐の御馳走を持出し「貴郎《あなた》、今日お登和さんがいらしって色々のお料理をなさいましたから先ずこれを召上ってそれから大原さんのお話をお聞きなさい」大原「小山君、味の善《い》い物は皆《み》なお登和さんの料理だ。少々不出来なものは奥さんの手になったのだし、干瓢《かんぴょう》の焦臭《こげくさ》いのは僕が手伝ったのだ」と例の如く腹帯を弛《ゆる》めてかつ食《くら》いかつ談ず。小山も笑いを含み「だが大原君、その大食を見てはお登和さんも愛想が尽きるだろう」妻君「オホホ、モー疾《とっ》くに尽きているのです」[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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