五味《ごみ》

○支那料理の東坡肉は一寸四角に切らず、大きなる肉を皮付のまま煮て客の前へ出し箸にてちぎりとるが御馳走なり。皮付の豚肉は横浜にて発売す。東京にては豚を剥《は》がして馬具屋へ売る故皮付肉なし。○豚の上等なる脂肪肉は蛋白質が百分中一割四分余、脂肪が二割八分より三割七分ほどあり、その余は水分なり。○蚕豆《そらまめ》の上等は百分中に蛋白質が弐割八分余、脂肪が一分三厘、含水炭素が四割九分、繊維が一分二厘、余は水分なり。その下等は胃のために極く不消化なる繊維が九分余もありて蛋白質は寡《すくな》し。○百合は百分中蛋白質三分三厘余、含水炭素二割四分なり。[#ここで字下げ終わり]

[#4字下げ]第三十四 五味《ごみ》[#「第三十四 五味」は中見出し]

 食物を喫するを知りて食物を味《あじわ》う事を知らざれば共に料理の事を談ずるに足らず。食物を味う事を知りて料理の法を知らざれば共に生理の事を談ずるに足らず。人のこの世に生存するは毎日の食物を摂するがためなり。食物は生存の大本《たいほん》なるに世人《せじん》の深く注意せざるは怪《あやし》むべし。この家の主人中川は平生《へいぜい》食物論を研究すると見えて頻《しきり》に長広舌《ちょうこうぜつ》を揮《ふる》い「小山君、モー一つ僕の言う事を聞いてくれ給え、西洋料理にも今のような生理の原則はあるが素人《しろうと》に解り難《にく》い。支那料理の原則たる五味の調和という事は誰にでも応用が出来て自然と化学的作用に適合しているね。即ち料理には必ず甘いと鹹《しおから》いとの外に辛《から》いと酸《す》いと苦《にが》いという五の味が備わらねばならん。日本人の食物は多く二味か三味で成立っているが僕の家では注意して必ず五味を調和する。今差上げた料理の中に甘いと鹹いのは勿論、胡椒《こしょう》や芥子《からし》の辛いのがあり、梅干や蜜柑の酸いのがあり、百合や蜜柑の皮の苦いのがあって五味になる。梅干を使わない時は酢《す》の物《もの》を拵《こしら》えるとか百合のない時には款冬《ふき》の薹《とう》とか鮎《あゆ》のウルカとか必ず苦味と酸味を膳の上に欠かないのが五味の調和だ。普通の人の食物は単調単味に過ぎるようだが五つの味が互《たがい》に化学作用をすると消化も好《よ》し心持《こころもち》も好い。これはどうか世人に勧めたいと思うね」客「なるほど、それも至極よかろう。時に御馳走の話しはモー沢山だが先刻《さっき》の話しはどうだろう。大原君の方では非常に急いでいるがこの場で返事を聞く訳にならんかね。御当人や親御《おやご》さんたちの御心持は後で聞くとしても君だけの心を聞きたいね。君は絶体的に大原君へ御令妹《ごれいまい》を遣る事には反対せんか。先刻僕が説明した大原君の真価を承認したらむしろ進んで賛成すべきだがどうだね君の心は。もし御本人がイヤと言わず、親御さんたちが御不承知でなければ君は別段に異存を言わんかね」主人「それは別に異存も言わんが、今妹を取られると僕が少し困る」客「それは君の勝手というものだ。御令妹の心も御両親のお心も君の心によって決すると思うが、御令妹は君次第、御両親も君次第といったら君はどうするね。大原君の処へ往ったがよかろうというか、それとも止《よ》したらよかろうというか、マサカ君が止せとは言うまいね」主人「止せとも言わんが少し待ち給え。僕だってよく考えてみなければならん。妹が生涯の大事件だからね」客「だからさ、ここで考えてここで決断したらよかろう。

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