鶏卵《たまご》の半熟

[#4字下げ]第三十七 鶏卵《たまご》の半熟[#「第三十七 鶏卵の半熟」は中見出し]

 形に礼ある人は今の世になお求むべし。心に礼ある人を尋ねなば滔々《とうとう》たる天下|幾干《いくばく》かある。形の礼も軽んずべからず、然《しか》れども心の礼のなお一層重き事を思うべし。いわんや心にも礼なく形にも礼なく放埒不覊《ほうらつふき》にして長上を軽んじ先輩を侮《あなど》る如きは人の道を外れたる禽獣行《きんじゅうこう》のみ。禽獣行の人は家庭の良主人となすに足らず。女の身を寄せんには誠実の心の男子に限るとここに至りてお登和嬢もまた大原を軽んぜず。兄の中川は妹の身の大原に嫁《か》して幸福ならん事を信じ、四、五日過ぎて後我意を大原に通ぜしめんと親友なる小山の家を訪いて小山夫婦にその事を物語れり。夫婦も世話|甲斐《がい》ありとて悦びしが不思議な事には大原がその後一向顔を見せず。小山は頻《しきり》に親友の身を案じ「中川君、僕が君の家へ往った翌日《あくるひ》必らず大原君が返事を聞きに来るだろうと思っていたが一向来ない。その後昨日になっても今日になってもまだ来ないからどうかしはせんかと思って心配している。昼飯《ひるめし》を食べたら大原君の下宿屋へ尋ねて行こうかと今も家内に話していた処だ。君も一所に往ってみないか」中川「ウム往《ゆ》こう。この話の有無《うむ》にかかわらず大原君は僕らの親友だから情誼《じょうぎ》として尋ねなければならん」小山「それでは昼飯の支度《したく》をさせよう。お徳《とく》や、ちょいと昼飯の支度をしておくれ」妻君「ハイ、ですが中川さんにはうっかりした物を差上げるとお笑い草の種になりますから困りましたね」主人「ナニ構うものか、どうせ知らないのだもの。知らないからお登和さんに教わって料理法を覚えなければならん。何でも差上げて悪い処は中川君に指摘してもらう方がいい」妻君「それに生憎《あやにく》今日は南京豆の煮たのがあるばかりで外に何の料理も出来ていませんし、魚屋もまだ来ず、家にあるものは鶏卵《たまご》位ですから鶏卵で何か拵《こしら》えましょうか。中川さん失礼ですが玉子はどうしたのが一番いいでしょう」中川「そうですね、妹は色々な玉子料理を拵えますが僕はよく知りません。しかし玉子は真誠《ほんと》の半熟が一番消化も良し、味も良いようです」主人「半熟に真誠《ほんと》と虚偽《うそ》があるかね」中川「あるさ、真誠の半熟は非常にむずかしいもので我邦《わがくに》では医学博士の鈴木幸之助君が熱心なる研究の末に漸《ようや》くその方法を発明された。米国では十年以前から行われている。今までの半熟というのは白身《しろみ》ばかり半分固まって黄身は少しも煮えておらん。あれでは白身の半熟で玉子の半熟でない。白身も黄身も共に半熟にならなければ真誠の半熟といわれんが昔《むか》しから温泉で湯煮《ゆで》るとその半熟が出来る事は人が知っていた。修善寺や熱海の温泉でそういう半熟の玉子を客に出して温泉の効能だと誇っていた。研究の結果によると全く温度の加減にあるので温泉の薬力ではない。奥さん一つ試めして御覧なさい。弱い火へ湯を掛けて玉子を入れるのですがその湯の中へ指先をちょいと入れられる位の温度にして三十分から四十分間位湯煮ると白身も黄身もちょうど良い半熟になりますよ。寒暖計で測れば摂氏の六十八度より低からず七十度より高からず即ち華氏の百五、六十度という温度です。こうして湯煮た半熟はその味の佳《い》いこと玉子の嫌いな人でも悦《よろこ》んで食べられます。とても普通の半熟や湯煮玉子は比較になりません。かついつまでも腐敗せんで暑中でも三日持ちます。今日拵えたものを明日食べるには五分か十分温めればいいのです。極《ご》く便利だから遣《や》って御覧なさい」と一々特別の料理法あり。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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