風流亡国論

○鶏卵の胎盤は軽きもの故受精せざる時は必ず浮いて黄身の上部にあり。受精してカラザに繋がるれば上部へ浮かずして側面にある事多し。○白身は鳥の身体となり、黄身は食物となる。孵化後の雛も一両日間は肛門の内に黄身を納《い》れあるなり。これ雛が自由に食物を摂取し得るまでの兵糧《ひょうろう》と知るべし。[#ここで字下げ終わり]

[#4字下げ]第四十 風流亡国論[#「第四十 風流亡国論」は中見出し]

 客の中川ここに至りて慨然と嘆息し「小山君、君も知っている通り僕は平生風流亡国論を唱えて日本人の似非《えせ》風流は亡国の基《もとい》と主張するが玉子の話についてもいよいよその事を想《おも》い起すね。今の青年|輩《はい》は動《やや》ともすると実用なる科学智識の研究を閑却してヤレ詩を作るの歌を詠《よ》むのあるいは俳句を案ずるのと無用な閑文字《かんもんじ》に脳漿《のうしょう》を絞《しぼ》っているが、そんな事は専門家に委《い》すべき事だ。詩人とか歌人とか俳人とか一身をその専門の業に投じた人のする事で、文明の道に進むべき多忙多事なる青年輩の為《な》すべき事でない。素人《しろうと》がいかに脳漿を絞っても専門家を凌駕《りょうが》して天下後世へ伝わるほどの名句が出来るはずもないのに、無用な事へ心を労してそれがために実用の智識を等閑《なおざり》にするのは最も憂うべき事だ。そんな暇があるなら玉子の雌雄鑑別法でも研究して全世界の養鶏家へ大利益を与えるような工風《くふう》をしたらよかろう。日本人に発明の出来ないのは能《あた》わざるにあらず為《な》さざるなりだ。無用な似非風流に脳力を費して実用な事に心を向けんからだ。遠い昔の芭蕉や其角《きかく》の句は諳誦《あんしょう》していても毎日食べる玉子はどれが新しいか古いか知らんような迂闊《うかつ》な心掛ではどうしてこの文明世界へ進む事が出来よう。僕は世人の気楽なるに驚くね」と文学者の口よりかかる説の出《い》ずるは幾分か世運の進歩せし兆《しるし》ならん。主人の小山も同感と見え「いかにもそうだよ、書画や骨董《こっとう》の鑑定に長じて千年以前の物も立《たち》どころに真偽を弁ずると威張《いば》る人が毎日|上海玉子《しゃんはいたまご》の腐りかかったのを食べさせられても平気でいる世中《よのなか》だもの。古い書画を鑑定する智識と毎日の食物を鑑定する智識といずれが人生に必用《ひつよう》だろう。世中の事は多く本末軽重を誤っているからおかしい。女にしてもその通りだ。僕の妻君なぞは珊瑚《さんご》の玉と明石玉《あかしだま》とを鑑別する事は大層お上手だが魚屋の持って来た鯛《たい》は房州鯛《ぼうしゅうだい》か三浦鯛か新しいか古いかという事はよく御存知ない。同じ大《おおき》さでも房州の鯛と三浦の鯛とは直段《ねだん》が半分以上も違うからね」と妻君にまでとんだとばっちり。妻君|打笑《うちわら》い「だから私も中川さんやお登和さんに教わって色々な事を覚えるつもりです。中川さん、玉子のお話のついでに、どうしたら玉子を長く保存しておく事が出来ましょうか教えて下さい」中川「玉子の保存法ですか。第一には新しい玉子と古い玉子と一所に置いてはいけません、一つでも古い玉子が交って腐敗し始めると直ぐに外の新しいのへ伝染して皆《み》んな腐ります。それから一つ一つ別々に離してお置きなさい。箱の中ならば籾《もみ》の中へ横に埋《う》めておくのです。第二は決して竪《たて》に置いてはいけません、必らず横にしておくのです。竪にすると今お目にかけたカラザという紐《ひも》が黄身の重みで切れますから早く腐ります。第三に一番長く保存する法は地を掘って下へ灰を敷いて玉子を一つ一つ離して横に置いてその上へ灰をかけておくのです。産《う》みたての玉子を中の黄味が動かないようにそうっと横に持って来てその中へ置いて少しも手を付けずにおくと一年過ぎても腐らんといいます」妻君「早速そうしてみましょう。夏になると玉子が腐ってしようがございません。オヤモー十一時だよ。あんまりお話に実が入《い》って御飯の支度が遅くなりました。今お割りになった玉子で田毎豆腐《たごとどうふ》でも拵《こしら》えましょう」と台所へ立って行く。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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