鰻《うなぎ》の中毒

[#4字下げ]第四十三 鰻《うなぎ》の中毒[#「第四十三 鰻の中毒」は中見出し]

 大原満の大食家も時ありて失敗する事あり。彼は今下宿屋の楼上に病《やまい》の床に臥《ふ》して起《た》つ事|叶《かな》わず。平生《へいぜい》の元気も失せて呻吟《しんぎん》してありける処へ親友の小山中川の二人尋ね来りければ徒然《とぜん》の折とて大《おおい》に悦《よろこ》び枕に臂《ひじ》をかけて僅《わずか》に頭《こうべ》を揚《あ》げ「これは御両君、よくこそおいで下された。僕は疾《と》うから御両君の家へ上らねばならんのだが、何を隠そう大失敗をやらかして一時は殆《ほとん》ど死ぬかと思った。実はこういう訳《わけ》さ。先日小山君の家で晩食の御馳走を戴いてその帰りに外の友人の家へ寄ったらちょうど僕のような大食家が二、三人|聚《あつ》まって鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》の競食会《くいっこ》をしていた。その時僕を大関に見立てて下宿屋へ呼びによこしたが不在《るす》で残念だといっていた処で是非僕にも仲間入をしろ、ナニ晩餐《ばんめし》を食べた後《のち》でも明日の分を繰上げると思えば何でもない是非|御相伴《おしょうばん》しろと強《し》いられたので僕も鰻飯《うなぎめし》は大好物なり、平生ならば三つや四つ何でもない方だから少々|胃吉《いきち》と腸蔵《ちょうぞう》に気の毒だったけれども苦しいのを我慢して大丼《おおどんぶり》を一つ半|平《たい》らげた。すると跡《あと》で非常に喉《のど》が渇《かわ》いて何か酸《す》いようなものが欲しくなった処へ桃の缶詰《かんづめ》が出たから僕一人で殆ど半分ほど平らげた。もっとも鰻に生梅《なまうめ》は食合せて悪い、梅干も良くないと聞いているが桃ならばよかろうし、それに一度煮てあるからと思って沢山食べたが帰って来るとその夜半《よなか》から腹が痛み出して吐《は》くやら下すやら七顛八倒《しってんばっとう》の大苦《おおくるし》み、一時は殆どこれ切りになるかと思った。早速近所の医者を呼んで一時の苦痛は療治してもらったがまだなかなか本復《ほんぷく》せんでこの通り臥《ね》ている次第さ。その時僕は食合《くいあわ》せという事が医学上でどう解釈されると医者に尋ねたら、世俗でいう食合せという事は何の理由もない、全く暴食の結果で激烈なる腸胃加多留《ちょういかたる》を起したのだと答えたが、どうも僕にはまだ疑《うたがい》があるよ。何となれば今まで随分|晩餐《ばんめし》の二度|食《ぐい》なんぞを遣《や》っても平気だったもの。あの時に限《かぎっ》てこんなに遣られたのは何か外に原因がありはせんかと思う。中川君、どういうものだろう」と病中の無聊《ぶりょう》にかかる研究心を起せしと見ゆ。中川は何事にも一応の理窟《りくつ》を組立つる癖《くせ》あり「イヤ、食合せの禁忌《きんき》という事は必ずあるべき事だ。今の西洋医者はとかくその事を軽蔑《けいべつ》する者が多いけれどもそれはまだ医学が充分に食物の化学作用を研究し尽さないからだ。譬《たとえ》ばパインナプルが牛肉を溶解する力ありとすればそれと反対に或《あ》る植物が或る肉類を不消化にするという作用もなければならん。現に酸類は牛乳を凝結せしめて不消化にする例もある。まして近頃の研究によれば鰻には激烈なる毒性がある。動物試験の結果鰻の毒質を他の動物の血液中に注射すれば忽《たちま》ち死ぬという事が分った。鰻の毒質は蝮蛇《まむし》の毒質と類似している。亜米利加《あめりか》の医者は鰻の血清を取って蝮蛇に咬《か》まれた人の毒を療治するそうだが好結果らしいというね」大原「そんな大毒《だいどく》なものを今まで人間が平気で食べていてよく中毒を起さなかったね」中川「それは鰻の毒質が人の胃液で解毒されるからだ。これも試験の結果でその毒は人の胃へ入れば無毒になるがもしも人の血液中へ注射するとやっぱり中毒を起すそうだ。その位な激毒だから普通の場合には人の胃中で解毒されるけれども梅とか桃とかの酸類と化合したら一種の中毒作用を起すのかもしれん。牛乳を沸《に》てその中へ梅や桃の液を滴《たら》すと牛乳中の脂肪が水分と分離して白い固形《かたまり》になる。それと似たように鰻の毒分へ何か化学作用を起すのに違いない。だから僕は我邦《わがくに》の医者に勧《すす》めて食合せ物の化学作用を研究させたいと思うね」大原「なるほど、してみると僕のは鰻の中毒かもしれない」と世には往々未研究の事実あり。中にも食物の化学作用は最も未研究の問題なり。

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