食餌箋《しょくじせん》

[#4字下げ]第四十五 食餌箋《しょくじせん》[#「第四十五 食餌箋」は中見出し]

 大原は中川の話しの耳新しきに感歎し「中川君、僕も今日の場合に食餌療法を実行したいと思うがモー一層|委《くわ》しく話してくれ給え」中川「僕も医者でないから委しい事は知らんが西洋の医者の食餌箋を一つ二つ手帳へ記してある。マア出して見よう」と懐中《ふところ》より手帳を取出して仔細《しさい》に検《あらた》め「ウイグル氏の胃アトニー症食餌箋というものがある。普通の人は三度の食事だけれども胃病の人は少しずつ幾度《いくたび》にも食べるといいから五|度《たび》の食事にしてある。先ず朝の八時がレグミーゼココア百五十|瓦《ぐらむ》にクリーム五十瓦と、一瓦は日本の二分六厘ばかりだからココア三十七|匁《もんめ》にクリーム十二匁ばかりだ。午前十時が鶏卵《けいらん》半熟《はんじゅく》一つと焼《やき》パン二十瓦即ち五匁、昼食《ちゅうじき》がよく叩いたビフステーキ百瓦即ち二十五匁、砕きたる馬鈴薯《じゃがいも》二百瓦即ち五十匁、飴《あめ》二十瓦即ち五匁、午後四時がココア百五十瓦とクリーム五十瓦だから朝の通りさ。午後七時がタピオカ二百五十瓦飴十五瓦でその外にパン五十瓦牛乳二百瓦ブランデー十瓦を一日の中《うち》に適宜に用いるのだ。それで全熱量が千六百十カロリーになる。普通の人の食物は十三貫目の人に二千カロリーを要するが病人だから少し減じてあるのだ。大原君解ったかね」大原「少しも分らん」中川「解らないかね。僕の家へ来ればココアでもタピオカでも西洋食品は何でもあるけれども普通の家には滅多にないから西洋の食餌箋は日本人に不適当だ。されば我邦《わがくに》の医者が平生食餌箋を拵《こしら》えておいて胃病の患者には何の食物、熱病の患者には何の食物、快復期には何の食物と日本流の食物を指定してくれれば極《ご》く都合がいいけれども多くは無頓着で、食物の事を尋ねると不消化なものはいけません、牛乳を沢山お飲なさいという位な事だ。同じ豚でも生肉は非常に不消化だがハムにすると非常に消化が良《い》い。薩摩芋《さつまいも》も大《おおき》いのを食べると胸が焼《やけ》るけれども裏漉《うらご》しにして梅干で和《あ》えると胸へ持たん。同じパンでも種類によって三十一時間体中に留まるものもあれば黒麺麭《くろぱん》のように十四時間で体外へ出るものもある。同じ品物でも料理法によって消化が違い、同じ牛乳でも飲み方によって消化が違う。病人が牛乳を沢山ガブ飲みしたら胃液や外の酸類で凝結《ぎょうけつ》して胃を悪くするに極《き》まっている。だから医者はよく食事法を病人に教えなければならん。単に不消化物が悪いという位では訳が分らん。胃病の人には不消化物よりも流動物の方が毒になるし、熱病の人には固形物を厳禁する場合もある。西洋の食物は何でもカロリー表が割出してあって鶏卵の半熟は八十カロリー、人参《にんじん》が二十五匁で四十カロリー、蓬蓮草《ほうれんそう》が二十五匁で百六十五カロリー、ジャガ芋が十二匁で六十三カロリー、雛鳥《ひなどり》のササ身が二十五匁で百六十四カロリー、犢《こうし》のカツレツが二十五匁で二百五十カロリー、焼パンが十二匁で百五十六カロリー、バターが八匁で二百二十カロリー、砂糖が二匁五分で四十カロリーというように西洋料理の一品一食を直ぐに体量表と比較して一日に幾品《いくしな》幾皿《いくさら》を食べなければならんという勘定が出る。日本食事は一向まだ研究がしてない。味噌汁一|椀《わん》に飯三杯は幾《いく》カロリーになるか滅多に知《しっ》ている医者もあるまい。それだから食餌療法が我邦に行われん。大原君だって下宿屋生活ではなおさらこの食餌箋通りなものを作る事が出来まいから僕も家へ帰ったらお登和にタピオカの料理でも拵えさせて進《あ》げようか」とこの一語に大原ムクムクと起き上り「ウムお登和さん、是非願いたい」と俄《にわか》に嬉し顔。側にいたる小山が「大原君|悦《よろこ》び給え、中川君がお登和さんの事を承知されたよ。君の本望は達したよ」と聞いて大原立上って雀躍《こおどり》し「ありがたい、モー病気全快だ」

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