病気全快

[#4字下げ]第四十六 病気全快[#「第四十六 病気全快」は中見出し]

 千金の薬も愉快といえる感じに優るものなし。今までは起きも得ざりし病人の大原が本望成就と聞きて床の上に端座なし「小山君僕は深く君の恩を感謝する。中川君はお登和嬢を僕の処へくれると承諾されたのだね。実にありがたい。中川君、一たび承諾された以上は後に再び変更する事はあるまいね」中川「大丈夫だ」と笑いながら言う。大原は夢でなきかと疑うばかり「だがしかし中川君ばかり承諾されても御本人のお登和嬢が何と言われたろう。最初の風向《かざむき》では少々心細かったが御本人も承諾されたろうか」中川「ウム、妹も別段に異存はない様子だ」大原「別段に異存はない様子だなんぞは少々|不確《ふたしか》だね。御本人が進んで僕の処へ来たいと言う位でなくっては不安心だ」中川「アハハ、なかなか御念の入る訳だ。しかし僕や本人が承知しても一応国の両親へ通知してその上に事を極《き》めなければならん。国から返事が来た後に万事を相談しようが君もまだ病中ではあるし、気を付けて緩々《ゆるゆる》養生し給え」大原「イヤモー全快だ、全くモー何の事もない。先刻《さっき》までは身体《からだ》の工合も悪くって起きるに懶《ものう》かったが今の話しを聞いて病気が何処《どこ》へか飛んで往った。気分も平日の通りだし、腹も急に減って来て平日のような米の飯が食べたくなった。自分ながら不思議のようだね」中川「アハハ現金なものさ。それがいわゆる精神感動だね、俄《にわか》に戦争がその土地へ始まったために腰の抜けた大病人が我れ知らず立って逃出してそれなり病気が癒《なお》ったという事もある。精神感動ほど人の身体に偉大の働きをするものはない。胃腸が悪いの身体が弱いのといって食物養生ばかりしていても自分の精神が不愉快だとやっぱり何の効もない。少し位な不消化物を食べても精神の愉快な時には忽ち消化してしまう、僕の議論は何が一番良く食物を消化するかといったら胃液よりも腸液よりも愉快な精神の働きだという説だね、その様子なら君はモー大丈夫だ。あまり暴食せんように注意したら程なく全快するだろう。そこで大原君、僕は近い内に日を期して君と小山君御夫婦とを招待して上等の御馳走を差上げたいと思う。珍無類の御馳走だ。如何なる贅沢家《ぜいたくか》も金満家も容易に口にする事が出来んほどのお料理だ。平生《へいぜい》はなるべく安い原料を美味《うま》く食べる工風にして身分に過ぎた贅沢をせんが、その代り僕の家では毎月一度ずつ無類上等の御馳走を拵えて一家団欒して食べる事に極めている。それでも料理屋へ往《い》って高価な不味《まず》いものを食べたり、飲酒会《さけのみかい》へ往って高い割前を取られるよりも遥《はるか》に廉く上って家内一同で楽しめる。世間では主人公|独《ひと》りが料理屋へ往って無駄な贅沢をして妻君は家で香の物や茶漬で飯《めし》を食うという悪い風もあるが、我々文学者の責任としてあんな野蛮風を社会より消滅させて一家の人が共に悦び共に楽むという美風を養成させなければならん。その主義で僕は毎月一度出来るだけ上等の御馳走を拵えるのだ。その時は君も遣って来給え」大原「往くとも明日でもいい」中川「まだ支度もあるから一、二週間の後だ。ではマア気をつけて養生し給え。小山君、モー行こう」と暇を告げて立上る、大原は最早平日の如き元気にて床を離れ室を出でて玄関まで送り来り「中川君よろしく」中川「よろしくとは」大原「お登和さんにさ」中川も小山も「アハハ」[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

— posted by id at 02:58 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 2.0496 sec.

http://ebook-my-home.com/