杉の割箸《わりばし》

○黒鯛は消化良なれども毒性あり。妊婦および梅毒患者の禁忌とす。[#ここで字下げ終わり]

[#4字下げ]第四十七 杉の割箸《わりばし》[#「第四十七 杉の割箸」は中見出し]

 それより数日を過ぎ、大原満と小山夫婦は中川の招きによりてその家に会しぬ。大原の愉快限りなし。先の日はお登和嬢の御馳走を飽食したれども心中に懸念する所ありていまだ嬢の温情に浴せず。今日は嬢の手料理に飽《あ》かんよりもむしろ嬢の温情に飽かん。未来の我が妻、外に得難き良夫人と心はあだかも春風《しゅんぷう》に包まれたる如《ごと》し。春風は庭にも来にけん、梅花の香《かおり》馥郁《ふくいく》として室《しつ》に入《い》る。室は綺麗《きれい》に掃除されたり。床の間の掛物、花瓶《かびん》の挿花《さしばな》、置物の工合なんど高雅に見えて一入《ひとしお》の趣きあるは書生上りの中川が嗜《たしなみ》に非《あら》ず。これもお登和嬢が才覚なるべしと何を見ても大原は嬢の徳を懐《おも》い嬢の才を賞す。やがて大《おおい》なる食卓は客の前へ運び出《い》だされたり。四角に見えたる食卓ながら横に板を抽《ぬ》き出《だ》して支えの腕木を箝《は》めければ忽《たち》まち長方形の大なる食卓と変じぬ。大原はこれも珍らし「ハハア平生《へいぜい》は四角に小さくなっていて大勢の時にはこう長く抽出《ひきだ》せるのだな、これは非常に便利だ。今にお登和嬢と結婚したら早速こういう物を造らせなければならん」と今は何物をも等閑《なおざり》に見ず。食卓掛《てーぶるかけ》の白き布は下女によりて掛けられたり、硝子《がらす》のバター器《いれ》塩壺《しおつぼ》ソース芥子《からし》の器《うつわ》なんど体裁好《ていさいよ》く卓上に配置せられたり。西洋風のナイフとフークとスプーンとが五人前だけ並べられたる側に杉の割箸が一本ずつナイフの側に置かれしこそ不思議なれと大原は窃《ひそか》に小山にその由《よし》を問う。小山も仔細《しさい》を知らずして主人に質問し「中川君、今日は正式の御馳走と承《うけたまわ》ったが食卓《てーぶる》の御様子では西洋料理の御馳走らしい。しかるにこの割箸はどういう訳だね」中川「アハハ、それは不審に思われるだろうが今日の正式は西洋料理にもあらず、支那料理にもあらず、僕の一家の正式だ。もっとも順序と料理法は西洋風を土台として和漢の料理を加えたのだが、割箸を添えた事については僕も大に議論がある。日本人は西洋人と違って少年の時から箸の使用法に熟練している。西洋人には真似《まね》の出来ない一種の技術を持っている。西洋料理を食べる時にもフークで物を挿《さ》すより箸で挟んだ方がよほど楽だ。しかるに日本人が西洋料理を食べる時にはわざわざ独得の技術を捨てて調法な箸を使わずに不便なフークを使うのはその意を得ない。僕は折々西洋料理屋へ往《い》って箸を所望《しょもう》するよ。先日も料理試験のため妹と一所に或《あ》る西洋料理屋へ行った時|鱚《きす》のフライが出たから給仕に箸を一膳ずつ貸してくれといったら妙な顔をしていた。箸を借りて僕が妹と共に平気な顔でフライを食べ始めると外《ほか》にいた日本人の客や給仕はクスクス笑っていたが一組の西洋人の男女が不思議そうに僕らへ注目した。外の客も多く鱚のフライを食べている。しかるに小骨が多くってなかなかフークの手におえん。中には尾へ手をかけてむしり始めたものもある。西洋人すら随分困難していた。僕らだけは箸のお蔭で骨は骨、肉は肉と綺麗に取捌《とりさば》いて食べたから西洋人も感心した様子だ。日本人は便利な機械を使っていると思ったろう。西洋料理屋の食品は肉沢山の野菜少で日本化せられているが、食法《たべかた》に箸を使わんのは日本化していない。僕は食法を日本化して以来は西洋料理に箸を用いさせる事にしたい。何ほど便利だか知れないぜ。僕はこの事を天下の西洋料理屋へ勧告したい。西洋料理屋はともかくも素人《しろうと》の家《うち》で西洋料理を出す時に何を苦《くるし》んで箸を閑却《かんきゃく》するか。僕の家では西洋料理に箸を出すのを正式としておくのだ」と随分|風変《ふうがわ》りな正式。

— posted by id at 02:59 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 2.0818 sec.

http://ebook-my-home.com/