鯛《たい》スープ

[#4字下げ]第四十八 鯛《たい》スープ[#「第四十八 鯛スープ」は中見出し]

 台所の用意も充分に整いけん。今日はお登和嬢も出で来りて食卓に着きぬ。大原はなるべく嬢と並んで坐りたし。さりながら嬢と中川は向う側にあり、客の三人|此方《こなた》に並んで坐《ざ》せり。結句《けっく》この方が嬢の顔を見られて都合好しと大原は強《あなが》ちに悔《くや》まず。席定まるや、下女は西洋皿にパンを載《の》せて出で来り、一々法の如く食卓の上に置く。大原は何の思慮もなし「モシモシ女中さん、御面倒だがね、僕のパンは焼いてトウストにして下さらんか。中川君、僕は何時《いつ》でもパンを焼かせて食べるよ」と西洋料理屋へ行ったつもり。中川は別に咎《とが》めず「そうかね、それならば焼いて進《あ》げるがいい。しかしこのパンは昨日《きのう》製したのだよ、古いから焼かずに出したが新らしければ勿論《もちろん》焼いて進《あ》げるさ」と主人の説明を客の小山が不審顔「中川君、古いから焼かぬ、新しければ焼くとはどういう訳《わけ》だ。僕の家では新しいパンをそのまま食べて古くなったのを焼いて食べるよ」中川「それは大間違《おおまちがい》、西洋人は新しいパンを胃に毒だといって昨日製したものでなければ食べない。新しいパンは水分が多くって鬆《す》の中へ水分が充ちているから胃中へ入った時胃液が滲入《しんにゅう》しないで消化が悪い。古いパンは水分が蒸発して鬆の中が乾燥しているから口では唾液《だえき》を滲入させるし腹では胃液腸液を滲入させるから消化が良い。だから新しいのは焼いて水分を蒸発させる、古ければ焼くに及ばんではないか」と仔細《しさい》を聞いて大原急に下女を呼止め「モシ女中さんそれなら僕も焼かずに食べよう。何でも僕らのする事は間違った方が多いね」と今度は深く慎《つつし》みて主人らが為《な》さんようを窺《うかが》う。下女はやがてスープ皿を持出して客の前に置けり。大原以前に懲《こ》りてや手も出さず、主人の中川が笑いながら「大原君、冷《さ》めない内に早く遣《や》り給え。これは外形が西洋風で内容が長崎風で鯛の頭のスープだよ。長崎で鯛の頭といえば非常の御馳走だ。殊《こと》に眼《め》の肉と嘴《くちばし》の肉は第一番の上客に差上げるとしてある位で鯛の全身中第一等の美味だね。これは鯛の頭を水から煮て一日煮通さねばならん。朝から火にかけたら晩まで煮抜くのだ。頭の外に骨があったら入れるとなおいいけれども少しでも身を入れてはならん。身を入れるとまるで味が悪くなる。塩で味をつけるから鯛の潮汁《うしお》に似て味は十倍も佳《い》い。贅沢《ぜいたく》な人や金満家は毎日鯛を食べて三浦鯛に限るなどというけれども鯛の一番の味は頭にある事を知らんで用いない人もある。鯛の身を何の料理にしても頭のスープほどに美味《うま》いのはないね。西洋料理のスープは三百以上の種類があるけれども、上品で味の好《い》いのはこの鯛スープに優るものが寡《すくな》い。西洋人もまだこの味を知らん。日本人では長崎の贅沢家を除くの外あまり知るまい。原料は安いもので味は最上等のものだ。そのつもりでよく味《あじわ》ってくれ給え。眼の肉と嘴の肉も少々ずつ入れてあるよ」と説明されて客もその味を感じ、小山の妻君が研究顔に「この取合せ物は何《な》んでございます」お登和嬢「それは仏蘭西《ふらんす》のそうめんと三《み》つ葉《ば》が入れてあります」大原|舌《した》打鳴《うちな》らし「アア美味い」とチュウチュウ音をさせスープを歃《すす》る。

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