スープの皿

君はスープの皿の向うの端を持上げて自分の前へスープを溜まらせてスプーンで掬《すく》うが西洋人は反対に此方《こっち》の端を持上げて皿を向うへ坂にしてスープを向う側へ溜まらせて食べるね。そんな事はいずれでも構わんけれども心得のために話しておくのだ」大原「そうかね、僕は一向知らんからツイ間違った事をする。以来は気を付けよう」と漸くにしてスープを飲みおわりぬ。今度は何の料理が来るかと待つ処へ料理は来《きた》らで下女が極《ご》く小さなコップと美麗なる小壜《こびん》を持来りぬ。主人の中川自ら小コップを客の前に置きて小壜の酒を注《つ》ぎ「諸君、この酒を一つ試み給え。これも天下の富豪や贅沢家《ぜいたくか》がまだ口に入れた事のない珍物《ちんぶつ》だ」と自分のコップへは惜しそうに半《なか》ばほど注ぎぬ。客の小山先ず一口|味《あじわ》い「なるほどこれは妙な酒だ。まるで仙人の飲みそうなものだ。仙家《せんけ》の菊水とでもいうようだね」小山の妻君も「私にも戴けますね、大層結構です」大原も「これは乙《おつ》だ」と一口に飲み干さんとするを主人は劇《あわ》てて「大原君、君のようにグイ飲《のみ》をされては溜まらん。お更《かわ》りを差上げたくも一杯きりでモーない。これは小山君の評の通り如何《いか》にも仙家の酒に違いない。即ち三宅島の木覆盆子《きいちご》から製した酒だ。酒というよりも、純粋なる覆盆子の液というべし。三宅島では山へ行くと全山まるで野生の木覆盆子ばかりで高さは二丈位に生長し、その実の大《おおい》なること内地ではとても見られんそうだ。しかるに今までは利用法がないから年々空しく腐っていたのを伊豆の間宮氏という熱心家が五年前から三宅島へ籠《こも》りて覆盆子液の精製法を研究して去年漸く醸造《じょうぞう》し得たのがこの覆盆子酒だ。純粋の液だから何とも言われん上品な味だろう。酒というよりもむしろ西洋風のシロップに近い。そのつもりで少しずつ味ってくれ給え」と謂《いわ》れを聞けば大原も一口に飲み難《がた》し「なるほど、それでは一口ずつ舐《な》めるかね。時に中川君、西洋料理屋へ行って最初に酒を注文しても必ずスープの出た後で持って来るのはどういう訳か」中川「それは注文の方法が悪い。スープを飲んだ後に注文するのが本式だ。しかし田舎へ行くと大笑《おおわら》いな事がある。僕が先年或る地方の小都会へ旅行してその地の紳士に西洋料理を御馳走されたが紳士は西洋料理屋へ入って椅子《いす》へ着くと、ビールを持って来いといきなり給仕に命じたものさ。スープの前に持って来はせまいと思っていると大コップへナミナミ注いで来てスープの出ない前にビールの大壜《おおびん》を二本明けたのに驚いたね。お負けにビールは少々ござっているし食後の珈琲《こーひー》を貰《もら》ったらカビ臭《くさ》かった」と談話中に下女はフライの皿を持出し来る。

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