梅干の功

[#4字下げ]第五十 梅干の功[#「第五十 梅干の功」は中見出し]

 フライは出でぬ。大原はいきなりナイフを執《と》りてフライの背中を胴切にせんとしければ中川笑い出し「大原君、君も随分食事法を知らんね。西洋料理にフライをナイフで截《き》るという事はないよ。知らん人は截るかも知れんが西洋風には決してない。ナイフはフークの力で食べられんものばかり截るのだ。フライでナイフを汚すと給仕に笑われるさ。フークで押せば自由に取れるよ。西洋風にすればパンの端を少しちぎっておいてそれでフライの肉をフークの背中へ掻《か》き寄《よ》せるようにして食べるのだ。イイエ、フークの腹ではない。凹んだ方へ載せては反対だ、背中の方へ載せるのだよ。ナニ載らないと。アハハ、それだから箸《はし》を用意してある。箸で食べ給え。自由自在にどうでも食べられる」と注意せられて大原忽ち箸を執《と》り「フム、この方がよっぽど楽だ。日本人は箸を使う特技があるのに何を苦んでフークの背中を使わんやだ。時にこのフライは何だね、やっぱり珍物《ちんぶつ》かね」中川「それは川魚の第一といわれるヤマメのフライだ。即ち一名|※[#「魚+完」、第4水準2-93-48]魚《あめのうお》といって鮎《あゆ》より美味《うま》い魚だ」大原「ヤマメは川の上流にいて夏の者だと思っていた。夏は谷川で取れるけれども今頃どうしてあるね」中川「イヤ夏は川上で取れるが春は川下で取れる。冬の末から鮎の子が少しずつ川へ上り始める。ヤマメはそれを食うために寒中からそろそろ川下へ下り始めて今頃はモーポツポツ川下で釣れる。しかし非常に貴《たっと》い、僕は先日から地方の知人に頼んでおいて漸《ようや》く取寄せたのだ。随分珍味だろう」大原「そう聞いてみると格別に美味く感じるね、僕は先日|余所《よそ》でムツのフライを食べたがムツもフライにすると結構だね」中川「ウム、小田原のムツの新しいのなら非常に美味いよ。ムツは全体下等な味で煮ても味噌漬《みそづけ》にしても下品な方だけれどもフライにすると大層淡泊で上品になる。それもムツの産地によって味が大層違う。三浦のムツより小田原のムツの方が直段《ねだん》も三、四割高いが味は二、三倍も違う。ムツは小田原辺のに限る。といって鯛は三浦の方が小田原より上等だ。鯛は三浦に限るね」小山が傍《かたわら》より「魚でも牛肉でも産地で味が違うから妙だ。牛肉も西では神戸、東北では米沢というが日本の牛は概して味が好《い》いそうだね」主人「そうさ、日本牛のは全体食牛に適した種類だからね。牛を大別すると乳牛と耕作牛と食用牛と三つになるが日本の牛は食用牛の種類に属する。しかし神戸の牛は大概|糖尿病《とうにょうびょう》に罹《かか》っているそうだね。今まで但馬《たじま》辺りの山の中で働いていたものが急に神戸へ連れて来られて美味い物を食べさせられてそれで運動をせんから人間がそういう場合になったと同じように必ず糖尿病にかかるそうだ。もっとも糖尿病に罹った牛肉が有害なるや否《いな》やは未定の問題だけれどもよく検査すると魚類にも病気のものが沢山ある。ジストマに罹った鮒《ふな》を食べると人の肝臓《かんぞう》にもジストマが発生して危険な事もある。だから食物は五味を調和して殺虫剤を食べなければならん。フライの付け合せ物は梅干《うめぼし》の煮たのだが一つ遣《や》ってみ給え。即ち和洋混交の付け合せだ。梅干は色々の効がある。或る場合には殺虫剤になり、それから鉛毒を消す効がある。毎日|白粉《おしろい》をつける婦人たちは勿論《もちろん》、西洋には水道の鉛管のために鉛毒を受ける人も沢山あるから我国でも水道の水を飲む人は毎日梅干を食べるがいい」と頻《しきり》に語る側で小山の妻君梅干の煮たるを賞翫《しょうがん》し「お登和さん、これはどうしてお煮なさいます」と先ずその料理法を問う。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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