肉の味

[#4字下げ]第五十四 肉の味[#「第五十四 肉の味」は中見出し]

 小山は我が郷里に去勢術を実施させたき下心ありて熱心なり「中川君、君の話によると巧《たくみ》にさえ遣《や》れば跡《あと》は直《じ》きに癒《なお》るようだがその疵口が膿《う》んだり腫《は》れたりして病気になる事はないかね」主人「それは大丈夫さ、器械も鶏の外皮《かわ》も一々厳重に消毒法を行って施術《しじゅつ》するから化膿《かのう》する事はない。疵口へ細菌の飛込む事があったらそれこそ実施者の不注意だ。疵口を縫う糸も普通の外科用の消毒糸で沢山だ。人間の疵口を縫うには先年まで猫の皮から製した糸を使ったが陸軍の発明で今では天蚕糸《てぐす》の精製したものを使う。天蚕糸は直きに溶けてしまうから糸を引抜く世話がない。鶏は人間に比して体温が非常に高いためか普通の糸でも直きに溶けてしまうよ」小山「そうかね、是非《ぜひ》一つ僕の郷里へ勧《すすめ》て実施させたいと思うが素人《しろうと》にはとても駄目《だめ》だね。我邦《わがくに》には今熟練なる技術者が沢山あるかしらん」中川「まだ沢山はない。去勢術が出来るという人でも十羽去勢して六、七羽まで生きれば上等の方だ。素人が遣っては一羽も生きない。僕も試験のために五羽ばかり遣ってみたが四羽は動脈を破って即死さ。一羽は出血のため中止さ。こういう事は外科医者の施術と同じ事で非常の熟練を要するからなかなか沢山の技術者が出来るものでない。今の処ではたった一人去勢術の名人があるばかりだ。医学の素養ある人物が養鶏家になったので非常の熱心と多年の熟練とを以て最初自分の飼鳥《かいどり》を何百羽か殺した上今では全くその玄妙に達して何十羽施術しても一羽も殺さない技術者がある。そうなると無造作なもので十羽や二十羽は見ている内にちょこちょこと施術してしまう。このドウキングはその人の施術したのだ。ドウだね大原君、このケーポン肉は非常に美味《うま》いだろう」と今しも皿を空《むな》しゅうしてなお不足顔なる大原に問う。大原は思案気味「そうさねー、美味いというよりもむしろ柔《やわらか》くって綿のようだね。僕はかえって軍鶏《しゃも》の肉が硬《こわ》くって美味いと思う」主人「イヤハヤそういう人に逢《あ》ってはケーポンも泣くね。我邦の人は折々君のように何でも硬い物の方が嚼《か》みしめて味があるというけれどもそれは野蛮風の食方《たべかた》で、西洋人は舌で味《あじわ》うから柔くって美味いものを貴《たっと》ぶ。我邦で鶏を買うと老鶏《ろうけい》の硬い肉ばかり売って困るが、西洋人は若鶏の三百目以内位のものでなければ肉が硬いといって買わない。しかるにケーポンは施術後一年かあるいは十五か月位に至って最《もっと》も美味《びみ》な肉になるのでその点だけでも養鶏家には非常の利益がある。君のような人には大根でも人参《にんじん》でも何でもよく煮ないで生煮《なまにえ》の硬い方がいいのだろう。そういう人の処へお登和を進《あ》げても折角苦心して柔く煮た料理がかえって君の気に入らんようでは本意《ほい》ないね。マア止《よ》した方がいいかもしれん」と笑いながら調戯《からか》うに当人の大原は真《ま》に受《うけ》て大狼狽《おおろうばい》「イイエさ、僕だって今に柔い方が好きになるよ。お登和さんのお料理ならどんなに出来ても大悦《おおよろこ》びで食べるよ」と頻《しきり》に今の言葉を後悔した様子。小山の妻君もわざと調戯顔《からかいがお》に「お登和さん、私は大原さんと反対で貴嬢《あなた》のお拵《こしら》えなさるような柔いお料理が大好きですがこのボイルドチッキンはどうするのですか。教えて下さい」と笑いながら大原を顧《かえり》みる。大原は頭を掻《か》き「まだあんな事を言っている」

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