イチボ

[#4字下げ]第五十五 イチボ[#「第五十五 イチボ」は中見出し]

 お登和嬢もまた大原に戯《たわ》むるる心あり「小山の奥さん、大原さんのお口には合いますまいけれども鳥の肉を柔く煮ますのは普通の鶏肉屋《とりや》でお買いなすった硬《こわ》い肉なら大切片《おおぎれ》のままザット三時間も湯煮《ゆで》るのです。本式にすれば清い布巾《ふきん》へ米利堅粉《めりけんこ》を振撒《ふりま》いてそれで肉をよく包んで湯の中へ入れます。小さく切ったのは早く湯だりますけれども味が悪くなります。しかし急ぐ時は小さく切っても構いません。このドウキングなんぞは一時間半湯煮ればモー沢山です。肉がよく湯だりましたら肉を出して、その湯の中へ塩と胡椒《こしょう》とバターを加えて米利堅粉の溶いたのを入れてドロドロにして火から卸《おろ》す前に玉子を入れてツブツブの出来ないようによく掻廻《かきまわ》します。それを肉の上へかけたのがこのお料理です。しかし今度大原さんに差上げる時には生煮《なまにえ》の硬いのに致しましょう」と打笑う。大原|怨《うら》めし顔「お登和さん、どうぞモーその事をおっしゃって下さいますな。アアとんでもない事を言ってしまった」と愁然《しゅうぜん》として不快の色あり。主人の中川も気の毒になり「大原君、串談《じょうだん》だよ。気にかけ給うな。サア今度の料理も珍物だから試してくれ給え」と客の前の皿を下女に取かえさしめ「大原君、これはハンブルクビフステーキといって肉を叩《たた》いたビフテキの上へ玉子を載《の》せたのだがこの肉が普通の品でない。一頭の牛の中に極《ご》く僅《わずか》よりないエッジボーンという最上等の処だ。俗に牛肉屋でイチボというのは腰の三角肉でエッジボーンの転訛《てんか》したのだが全体その周囲《まわり》は中等以下の肉だ。ランをくれろというと最上等のイチボが附着《つい》て来る事もある位で、悪い肉の真中《まんなか》にホンの少しばかり最上等の部分があるのだけれども多くは外の肉と一所に切ってイチボの名で売っている。僕は懇意な牛肉屋へ頼んでこの部分を取っておいてもらったが、これこそ口へ入ると溶けるようだぜ」大原以前に懲《こ》りてや「なるほど柔くって実に美味《うま》い」と賞翫《しょうがん》する。小山が側より笑いながら「アハハお世辞ではないか」大原「ウンニャ実際だ。頬が落ちるようだ。ただあまりに分量の少きを惜むね」主人「少い処が貴《たっと》いのだ。今日の御馳走はカロリー表から割出してあるが君のは特別に分量が殖《ふ》えているよ。君に充分その肉を食われたら牛の三頭|振《ぶり》も使わねばなるまい」小山も笑いながら「大原君少し気をつけ給え、君の大食を節減させるというのが唯一の条件で中川君も承諾された。お登和さんの料理法で君が追々《おいおい》物の味を覚えたら自然と大食が止《や》むだろうという評議だよ。牛肉屋の二階でビフテキを食べるように五人前もお更《かわ》りをされて溜まるものか。ビフテキといえば中川君、君の話を聞いてからランという処を買うが大層美味いよ。しかし折々は不味《まず》い処を持って来て困る。あれは牛肉屋が悪いのだね」主人「そうさ、責任を知らない牛肉屋はランをくれろといってもイチボをくれろといってもハイハイと承知した顔をして手当り次第に側にある切《きり》かけの肉を切ってよこすからよく注意せんととんでもない処を持って来る。主人が責任を知っていても奉公人の肉切が無責任でエイ面倒だという風《ふう》に手当り次第の肉を切るし、肉切が正直でも配達人が無責任だと外へ配る肉と代ったりして困る。その代りランを注文して純粋のイチボが半分交って来るような事もあるけれども我邦《わがくに》の商売人がもっと責任を重んじなければ実に困るよ」と今の世は到る処この歎《たん》あり。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]

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