そんな準備が出来ているかね

モーそんな準備が出来ているかね」大原「イヤまだ一向ない。僕はこんな事に慣れんからどうしていいか訳が分らん」主人「そうだろう。それに就ては離れた処へ住むより近い処の方が便利だからこの近所へ相当な家を捜した方がいい。僕らも心掛けておくが君も心当りを尋ね給え」大原「毎日捜しに歩こう」主人「それからね、家を持つと第一に入用なのは勝手道具だ。お登和が台所を預かると色々風変りな勝手道具も要《い》るからその方はお登和の嫁入支度《よめいりじたく》として僕が買調《かいととの》えておこう」大原「ありがたい、どうぞそう願いたい。勝手道具位は孰方《どっち》になっても構わんけれども僕は様子を知らんからね」とこの一言は主人の耳に障《さわ》りけん、きっと眼《め》を開張《みひら》き「オイ大原君、勝手道具位といって軽蔑《けいべつ》しては困《こま》るぜ。僕のいわゆる勝手道具は文明流の家庭に用ゆべき勝手道具で野蛮風の勝手道具でないと」この言葉は外《ほか》の人に解し得ず。小山の妻君不審顔に「勝手道具にも文明流と野蛮流がありますか」主人「ありますとも。昔《むか》し風《ふう》の台所へ往《い》って御覧なさい、古びた青銅鍋《からかねなべ》だの粗製《そせい》の琺瑯鍋《ほうろうなべ》だのあるいは銅《あかがね》の鍋だの真鍮鍋《しんちゅうなべ》なんぞを使っていますが西洋は大概国法を以てあんな鍋の使用を厳禁しています。何となれば銅や青銅は緑青《ろくしょう》を発生して人身に有害ですし和製の三徳鍋なぞには多く鉛分《えんぶん》を含んでいます。鉛毒は勿論《もちろん》、緑青毒は激烈なもので随分人を殺すほどの危険もあります。鍋のために緑青中毒を起した例は毎度新聞に出るでありませんか。よく素人《しろうと》は白味さえよくかけておけば大丈夫だといって銅や青銅やあるいは真鍮の鍋を使いますが白味は直《じ》きに消えてしまって毎日幾分かずつの緑青毒を受けているのです。殊《こと》に西洋風の料理をして一日も二日も鍋の中へ汁を入れておくと緑青毒がいよいよ多く発生します。僕の知った人は青銅鍋で鳥のスープを製して翌日の晩に食べて一家残らず緑青中毒を起し死ぬほどの目に逢《あ》った者があります。こんな危険なものはありません。衛生思想が進歩したら我邦《わがくに》でも必ず銅分を含んだ食器を厳禁する事になりましょう。僕の家では決して青銅や銅の鍋を使いません。尽《ことごと》く西洋の鉄鍋ばかりです」と説明を聞いて妻君も気味悪くなり「では家でもそうしましょう、ねー貴郎《あなた》」と我が良人《おっと》を顧《かえりみ》る。良人の小山少しく不賛成の顔色。

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