顔の色

[#4字下げ]第六十三 顔の色[#「第六十三 顔の色」は中見出し]

 中川の説は言うべくして容易に行わるべからず。小山もなお反対の意見を抱き「中川君、道理上より言えばその通りに違いないが日本人の妻君は西洋人の妻君のように一日の仕事を料理の方へ向《むけ》られない事情がある。一例を挙げれば西洋人は二週間に一度か三週間に一度の外《ほか》風呂に入らない。日本婦人は大概毎日入浴して二|時《とき》以上ずつも顔や手足を磨《みが》いている。それに日本の妻君は三日に上げず髪を結うという手数もある。だから自然と料理のことを嫌ってお化粧《しゃれ》の方へ手数をかけたがる。西洋人の家へ往《い》ってみると妻君はいつでも料理の研究かその話しをしている。日本人の妻君は寄ると障《さわ》るとヤレ丸髷《まるまげ》の形状《かっこう》が好《い》いの、何処《どこ》の髪結《かみゆい》さんが結いました、私の髪結は下手《へた》ですから今朝結ったのをむしりこわしてまた外のに結わせましたなんぞと一日に二度も髪を結って騒いでいる人もある。これではどうしたって料理の事へ心を向けられんよ」と弁護するのか悪く言うのかイヤに笑って我が妻を顧《かえり》みる。妻君も苦笑いして下を向くは折々二度の髪を結う性《たち》と見えたり。主人の中川幾分か笑《えみ》を含み「そこだテ、西洋婦人だって身を綺麗にする心は日本婦人に劣らん。かえって一層盛んな位だけれどもその方法が違う。西洋婦人のは内部から皮膚の色を清潔にする主義でなるべく料理へ手数をかけて営養分の多い食物を喫して内の方から顔の色を出す。実際日本人が長く洋行していると色が白くなるのは多く食物の結果だ。日本婦人は外からばかり磨く、お湯に入って一時間も二時間も磨いて磨いて遂には顔の皮まで摺《す》り剥《む》く人があるけれどもそれがためにかえって食物の事を度外視して粗悪な無造作な手数のかからない生煮《なまにえ》の物ばかり食べるから顔の光沢《つや》は内部から悪くなって青いような黒いような陰気な色になり、お負けに年を積《と》ると顔へ汚点《しみ》が出来たりソバカスが出来たりする。医学上の説によると汚点やソバカスは営養の不足から出来るのだ。大病の後に出来る人のあるのはその証拠だ。日本婦人が外から顔を磨いて内からの食物を閑却するのは目的と結果とが反対になる。顔を磨きたいと思ったら料理法を研究して食物で色を白くするがよい。西洋人は滅多《めった》に入浴せんけれども毎日|襯衣《はだぎ》を取かえたり、夜具蒲団《やぐふとん》のシーツを取《とり》かえるから垢《あか》が身につかない。日本婦人は折角磨いた身体《からだ》を垢と油で黒光りになった夜具蒲団へこすりつけるから一晩で垢が付く。西洋婦人は髪の代りに帽子を蒙《かぶ》るから帽子へ金をかけると万事こう違う。全体西洋婦人は食物の事を自分の一番大切な用事と信じて貴夫人が自ら馬車へ乗って食料品を買いに行く。東京市中の西洋食品屋へ往ってみても分る。西洋人の馬車が店前《てんぜん》に停《とど》まって盛装した婦人が自分でハムの片腿《かたもも》を下げている事も沢山ある。日本の貴夫人が食品屋へ入ったのは見た事がない。貴夫人でなくとも御新造《ごしんぞ》さん位の処でも買物は下女任せだ。外の品物は下女に買わせても食品ばかりは自分で買わないと品質に非常の相違があって金銭に換《か》えられん。西洋婦人と日本婦人とは平生《へいぜい》の心掛《こころがけ》がそれほど違う。料理に手数がかかるといって面倒がるような人は亜弗利加《あふりか》の土人生活をするがいい。お登和なんぞは牛肉でも野菜でも皆《み》んな自分が往って買って来るよ」とこの様子にて推《お》す時はお登和嬢ほど家庭に徳用なる妻はなけん。かかる人を妻にする我身こそ幸福なれと座にありし大原満が独《ひと》りニコニコ恐悦顔。

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