大至急

[#4字下げ]第六十四 大至急[#「第六十四 大至急」は中見出し]

 未婚の人が結婚後の事を想像するほど愉快なる事はなし。大原満は今こそ愉快の焼点《しょうてん》に立てり。愉快度に過ぎて帰る事を忘れたれども小山夫婦が遅くなるとて別《わかれ》を告《つ》ぐるに自分独り留まらん事なり難《がた》く、お登和嬢に心の名残《なごり》を惜しみつつ夜《よ》に入《い》りて中川の家を出でたるが下宿屋へは足の進まずしてとかく心は後方《うしろ》へ戻る「ウフフ、有難いな、こう早く事が極《き》まろうと思わなかった。最初の形勢では容易に中川君|同胞《きょうだい》が承知しそうもなかったけれども案じるよりは産《う》むが安く、今では向うの方がかえって此方《こっち》より熱心だ。この近所へ家を捜そう、勝手道具は此方で買おうと中川君の意気組は大したものだ。これというのも全く小山君夫婦の尽力に違いない。小山君夫婦が僕のために中川君同胞を説《とい》てその心を僕の方へ傾けしめたに違いない。さもなければ中川君はともかくも御本人のお登和さんがなかなか急に此方へ心の向きそうもなかったもの、アア持つべきものは朋友だ。小山君夫婦があればこそ僕にこういう幸福が来たけれども朋友の尽力がなければ僕の独力では到底お登和さんを得られない」と誠実なる人だけに朋友の情誼《じょうぎ》を感ずる事深し。さりながらいまだ心に一点の安からざる所あり「だが待てよ、中川君の御両親は婚礼のためにわざわざ御出京なさるというから此方の両親も郷里《くに》から呼《よば》ねばなるまい。呼ぶも呼ばないもまだ何とも今度の事を申して進《あ》げない。うっかり申して進げて例の方から故障でも起ると大変だから事の確定した後と思ってまだ何とも申上げなかったが、最早《もはや》これほどに確定した上は早速申上げて御出京を乞《こ》わなければならん。何と申上げよう。別に偽《いつわ》りを申上げる訳《わけ》にはならん。小山君という親友の御夫婦が御尽力で同じ親友の妹を貰《もら》う事になった、その娘は料理もよく出来て誠に神妙な女だからなにとぞ御許し下すって婚礼の節には御出京を願いたいとこう申して進げるより外に仕方がない。それで御両親が直《す》ぐ御承諾下さるだろうか。例の一件がなければ親友の妹を貰うのだから悦《よろこ》んで御承諾下さるに違いないけれどもあの方の事が心がかりだ。しかしまだ公然と僕へ対して従妹《いとこ》を貰えと命令の下《くだ》った訳でもなし、外《ほか》の人へお話のあった訳でもない。ただ僕の推測に留まるのだからこれも案じるより産むが安く、向うの方は何事もなく済むかもしれない。どうかそう済ませたいものだ。伯父様《おじさま》の恩になっているからその娘を貰えといわれては断りにくいけれども恩は外の道で返す方法がある。恩と婚礼とは別の事だからな。しかしこれが東京辺の風習だと親が息子に嫁を強《し》い付ける事も寡《すくな》いけれども郷里《くに》の風では全く親の一量見で息子の嫁を極《き》めるのだ。当人同士の見合もさせずに親が好《よ》いと思うと直ぐ取極《とりき》めて貰って来るという風習だからな。もしやお登和さんの事を御承諾がなかったらどうしよう。そうしたら僕も殆《ほとん》どこの世に生存する張合がない。アア考えてみれば御両親の諾否《だくひ》が僕の運命の岐《わか》るる所。今こそ一大事の場合だ」と独りで思案しつつ下宿屋へ戻るに、下女が待兼ねたように差出す一通「大原さん、お郷里からお手紙が来ていますよ」「そうか」と大原手に取りて「ナニ大至急と」

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