実行の任

[#4字下げ]第六十七 実行の任[#「第六十七 実行の任」は中見出し]

 親友の小山はかかる事情を聞きて今までの意気組も俄《にわか》に失せたり「大原君、それではどうするね」大原「サアどうしようと思って昨夜《ゆうべ》から思案している。僕は固《もと》より最初からその従妹《いとこ》と婚礼する心はない。殊《こと》にお登和さんの事が極まって中川君|同胞《きょうだい》が僕のためにそれほどまで尽力せられると聞いては僕も感泣《かんきゅう》してその恩に酬《むく》ゆるつもりだ。それについては郷里《くに》の方へ何といって返事を出したらいいか、その事に苦《くるし》んでいる。尋常一様の返事ではとても承知する気支《きづかえ》がなし。といって僕は偽《いつわ》りを構えたり事を工《たく》んだりするのは大嫌《だいき》らいだから嘘は言って遣《や》れず、ありのままの事情を述べて両親の反省を乞《こ》うより外に仕方がない。ありのままの事情を述べれば郷里の方ではただ僕の我儘《わがまま》だと思うばかりで正当の理由と認めてくれんからね」小山「しかし大原君、そこが少し我々と外の人と違う処《ところ》だて。我々文学者は社会の悪い風習や野蛮な旧慣を改良して世人《せじん》を善道に導かねばならん天職を持っている。父母の意見ばかりで我子の承諾もないのに嫁を決定するのは悪い習慣だ。お負けに血族婚礼は生理上に乖《そむ》いている。支那では同姓を娶《めと》らずといった位だから昔風の老人にもその訳は解るだろう。君は社会を改良すべき文学者の天職としても生理上に乖いた悪い習慣に従う事が出来ん。文学者自ら人の道を実行する事が出来なければ如何《いか》にして世人を感化し得るだろうと、第一にその点を述べて御両親に反省を求めたらどうだ。習慣に従うのと道理に従うのといずれが重いという場合である。外の人なら便宜上習慣に従う事もあろうが社会を改良すべき文学者の責任としてはどうしても道理に従《したがわ》ねばならんという意味を委しく書《かい》て進《あ》げたらどうだね」大原「ウム、それも書くがね、その代り道理上からいえば父母の承諾なしに子が肆《ほしいまま》に嫁を定《さだめ》る事も出来ん。従妹の方を断ったために両親がもしお登和さんの事を不承知だったら僕は到底婚礼が出来ん」小山「それは感情から来るのだ。感情は多く道理と背馳《はいち》する。君がお登和さんと結婚すべき正当の道理があれば御両親もそれを拒絶さるべき訳はない。拒絶されれば間違った感情から来るのでそれは充分弁明しなければならん」大原「それがね他人の事だと弁明も出来るし勧告《かんこく》も出来るけれども自分の事を親に向って道理だの理屈だのと言出しにくいからね。殊に僕は親だの伯父だのに向って反抗の言葉を吐《は》く事が出来ない性分で、たとえ自分の方に正当の理由があると思っても向うは長老の言う事であるし、自分よりも経験に富んでいるだろうし、自分の強情を張ると後に悔ゆる事があるだろうと思っても何でも長老の意見に服従する方が多い。だから僕の口より道理を争う事は実にむずかしいよ。誰か親類の人に僕の方の賛成者があって両親に説いてくれるといいけれどもそんな人もなしね」小山「僕が君の御両親を知っているとあくまでも説付《ときつ》ける。けれども知らんから困る。ではこうし給え、今いった道理とお登和さんの事情とありのままに委しく書いてともかくも君の御両親に一応東京へ来て戴いて先ず本人のお登和さんをよく見てもらい給え、そうすれば従妹を貰ったよりお登和さんを貰った方が遥《はるか》に優《ま》しだという事もお分りになるだろう。僕も君の御両親と御懇意になって一生懸命にお登和さんの事を勧告しよう。そこで話が纏《まと》まればちょうど御両親御立会の上で直《す》ぐ婚礼も出来るからなお好都合だ。そういう風に手紙を出し給え」大原「なるほどね、そうしようかしらん」ととんだ苦境に陥《おちい》りしものかな。

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