俄《にわか》の旅立

[#4字下げ]第七十一 俄《にわか》の旅立[#「第七十一 俄の旅立」は中見出し]

 お代が本家へ帰りし間もなく、本家の父は面相《めんそう》変えて大原の家へ入り来れり。お代の言告口《いつけぐち》を聞きてよほど心の激昂しけん、足音荒くツカツカと奥へ蹈《ふみ》込み来り「コレお国、東京の満から手紙が来たそうだ。その手紙を見せろ」と妹にまで怒りの声、伯母はハイと手紙を取りて兄へ渡すに伯父がそれ渡してはと争いかけしも力及ばず、本家の父|劇《あわただ》しく手紙を読み下し「ナンだこの手紙は。お代の事がイヤになった、東京に好《い》い嫁があるから来て見てくれろとは何の事だ。お負けに従兄弟同士の婚礼はどうのこうのと生意気な事を抜かしおって体好《ていよ》くお代の事を断わろうとしている。満に学資を出して遣《や》って今まで勉強させたのは外の人よりなおよく親孝行をして我々の言う事を聞かせようと思うからだ。それが反対《あべこべ》に西洋にはこういう例があるの日本の医者がこういうのと悪い言草《いいぐさ》の種ばかり覚えて今更お代をイヤがるとは以《もっ》ての外《ほか》だ。己《おれ》たちが相談ずくで極《き》めたのだ。イヤもオーもあるものか。満の返事次第でお代を東京へ連れて行こうとその支度《したく》もしてあるがこんな様子では一日もうっかりしていられない。お代の荷物は後から出す事にして明日の朝|直《す》ぐに和女《おまえ》たちと一緒にお代を連れて東京へ行こう。暗い内に村を出て一の関まで車で飛ばせたら一番汽車の間に合うだろう。ナニ一応手紙を出すと。手紙を出すより自分たちの行く方が速い。一の関へ着いたら電報をかける。何でも構わないから明日行こう。明日の晩東京へ着いたら明後日《あさって》にも直ぐ婚礼をさせて、それから己たちは大阪の博覧会見物に出掛ける。今になってどうのこうのと満に何も言わせる事があるか」と本家の主人は分家に対して無上権《むじょうけん》を有す。分家の伯母もその事に賛成なり「明日といっては急だけれどもぐずぐずしていられないからそうしましょう。ネー貴老《あなた》、兄さんの言う通り今になってどうもこうもありはしない。お代を連れて行って婚礼させればそれで済《す》むのでさあ。早くサッサと旅立《たびだち》の支度でもなさいよ」と頻《しき》りに伯父を急《せ》き立《た》てる。伯父はいまだ思案にあまりて心進まず「だけども一応はよく満の心を聞いてみなくっては」伯母「貴老はよく満の心とお言いだけれども満の心よりもお代の心を察してお遣りなさい。満の方では今まで知らなかったかもしれないがお代の方では二、三年前から満のお嫁になる事を知っていて明けても暮れても満の噂ばかりしています。去年満が腸チブスとか何とかいう病気を煩《わずら》ったと聞いた時お代は毎日向う畑の鎮守様《ちんじゅさま》にお百度を上げた位です。それが今になって満に嫌われたとなったらあの子がどうするか知れやあしない。力を落して病気になったら後で悔んでも追付《おっつ》きません。それに満の方ではあの子がこんな好《い》い娘になっている事を知るまいからそれで東京の女が好《よ》くなったのです。お代を東京へ連れて行って今の娘っ振《ぷり》を見せれば満だってイヤと言うものですか」伯父「ウフフ、あの姿で東京へ連れて行った日には」伯母「ナニ」伯父「マアサ、東京へ連れて行ったら和女《おまえ》にも分るだろう」と伯父は最初よりお代の事に心進まぬを伯母や本家の父母に強《し》いられて満の嫁に定めしと見ゆ。今は本家の手前争う事もならず、まして自分は養子の身の上|家付《いえつき》の娘に逆《さか》らう事も叶《かな》わねば言わるるままに身支度《みじたく》して明日はいよいよ東京へ出発する事となれり。お代の悦《よろこ》び一晩寝ずに顔ばかり洗いて濃き白粉《おしろい》を塗立《ぬりた》てつらん。

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