新主人

[#4字下げ]第七十二 新主人[#「第七十二 新主人」は中見出し]

 故郷《ふるさと》の消息《おとずれ》聞く由《よし》もなし、東京なる大原満は小山夫婦と中川兄妹の尽力によりて近頃新なる家に引移れり。下宿屋|生活《ぐらし》より一躍して仮にも一家の主《あるじ》となれば自《おのずか》ら心|寛《くつろ》ぎて何事も愉快ならざるはなし、勝手を働くは小山が世話せし雇婆《やといばあ》さん、これとて当座の間に合せ、今にお登和嬢の嫁ぎ来りて妻と呼び良人《おっと》と呼ばれん日とならば婆さんの代りに小女《こおんな》を抱《かか》え、三度の食事も総がかり、毎日御馳走を拵《こしら》えて楽しき月日を送らばやと主人の心は空想の愉快に充たさるる。雇婆さんはまだ勝手に馴《な》れず「旦那様、お昼の副食物《おかず》は何に致しましょう」大原は旦那様と呼ばるるさえ耳馴れぬ心地にて新なる尊称のように嬉しく感じ「オー婆や、お昼を何にしていいか僕にも分らんがの、和女《おまえ》ちょっとお登和さんの処へ行って聞いて来てくれないか」と何事もお登和が頼り。雇婆さんもおかしく思い「オホホ、三度三度副食物の事をあのお嬢さんに伺《うかが》うのですか。お嬢さんもお大抵でありませんね」主人「だって僕に分らんもの。和女だって副食物拵《おかずこしら》えは出来まい」雇婆「ハイ私には出来ません。私は以前奉公人を沢山使って台所へなんぞ出た事がありませんのに亭主が損をして零落《おちぶれ》ましてからも娘を女郎に売るまでは万事娘任せで何にもした事がありません。だから御奉公するにしてもお留守番位なら出来るけれども水仕事は出来ないとよく桂庵《けいあん》へ断わっておいたのです。ナーニ旦那お一人きりでお留守番の外に用はないと言いますから此方《こちら》へ上りましたが、御飯炊《ごはんたき》や副食物拵えはとても出来ません」とかかる人物が年老いて人の家に雇わるるなり。主人も呆《あき》れたように「道理で今朝の飯なんぞは心《しん》があって生米《なまごめ》を噛《かじ》るようだ。お登和さんに聞かなければ何一つ拵えることも出来ん。その代り今にお登和さんが家へ来てしまえば三度三度|美味《おいし》い御馳走を拵えて二人で仲好くお取膳《とりぜん》で食るけれども」雇婆「オホホお楽《たのし》みでございますね」主人「楽みさ、この位な楽みはないの、和女《おまえ》が見たってお登和さんは好《い》い女だろう、あの位な女は滅多《めった》にないだろう」雇婆「ホンに好いお嬢さんです。お容色《きりょう》ばかりでありません。お気立がお優しくって御親切で昨日《きのう》も私に半襟《はんえり》を買って下さいましたよ」主人「そこが和女の好いという処か。僕が今にあの人と夫婦になったらよく似合うだろう」雇婆「イイエ」主人「似合わんかね」雇婆「貴君《あなた》には過ぎています。あのお嬢さんならどんな好い処へでもいらっしゃれそうなものですのに貴君の処へいらっしゃるのは少しお可哀想《かあいそう》のようですね」主人「イヤハヤこれはしたりだ。しかし過ぎているような人を貰《もら》うのだから僕は幸福者《しあわせもの》さ」雇婆「お仕合せですとも。あのお嬢さんがいらしったら大事にしてお進《あ》げなさいまし。粗末にすると罰《ばち》が当ります」主人「大事にするとも真綿《まわた》へくるんで桐の箱へ蔵《しま》っておこう」と大原が心はこの言葉よりもなおお登和嬢を大切に思う。そのお登和嬢は今しも裏口より入り来り大原を呼ばずして先ず「婆やさん」と小さく呼ぶ。

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