今朝の飯

[#4字下げ]第七十三 今朝の飯[#「第七十三 今朝の飯」は中見出し]

 末には我身の家なれども今はまだ他人なるお登和嬢、男主人《おとこあるじ》の大原に近しく言葉を交えん事も憚《はばか》りありて台所口よりそっと婆さんを呼び「婆やさん、今朝はどうでしたね、御飯が無事に出来たかね」と自分は婆さんに尋ぬる気なれど主人の大原が今はお登和嬢を余所人《よそびと》と思わず、奥よりその声を聞付けて台所へ出で来り「お登和さん、マア此方《こっち》へお上りなさいな。ナゼそんな処に立《たっ》ているのです、ズット奥へお通りなさい。今も婆やを貴嬢《あなた》の処へ上げてお昼の副食物《おかず》を伺おうと思っていた処です。イヤモー貴嬢が一々教えて下さらなければ三度の食事も戴く事が出来ません。今朝なんぞは心《しん》のある飯が出来て生米のような処もあるし、といってグチャグチャしてお粥《かゆ》のようでもあるし、さすがの僕も閉口して食べられません。それでお釜の底の方は半分|焦《こ》げて狐色になっているのです。何という飯だか僕も初めてあんなものに出逢いました。婆や、ちょいとその御飯をお目にかけて御覧」と婆さんをして飯櫃《めしびつ》を持出さしむ。お登和嬢もツイその話しに惹入《ひきい》れられて台所口より勝手の小座敷に入り何か風呂敷に包みたる皿のようなものを婆さんに渡して「ちょいと其処《そこ》へ置いておくれな。オヤマアこれが今朝の御飯かえ。オホホ、なるほど妙なものが出来ましたね。大原さん、貴郎《あなた》は今まで下宿屋の御飯を召上っていらしって急にこんな御飯をお食《あが》りですからなおお驚きでしょう。下宿屋の御飯は大釜で沢山|炊《た》きますからお米が少し悪くっても美味《おい》しく出来ます。小勢《こぜい》な家《うち》では大きなお釜で少し炊くからどうしても美味しく出来ません。それに薪《まき》の堅いので炊いたのと柔いので炊いたのとは火の通りが違って味も変ります。井戸の水で炊いたのと水道の水で炊いたのとは硬水と軟水ですから味も違いますし夏なんぞは水道の方が長く持ちます。磨《と》ぎたてを炊くと硬《こわ》く出来ますし、磨ぎ置きは柔く出来ます。水車で搗《つ》いたお米はどうしても水分がありますから水を引かないで柔く出来ますし、機械や臼で搗いたのは水を沢山引きますからその加減をしないと硬く出来ます。これは水車のお米へ水を沢山張り過ぎて火が強かったり弱かったりした上に幾度《いくど》も蓋《ふた》を取って少しも蒸れなかったのでしょう」大原「蓋を取りましたとも。火を引くまでに婆さんが二十遍も蓋を取って中ばかり覗《のぞ》いていました」お登和「オホホ蓋を取ってはいけません。蓋を取ると蒸汽が漏《も》れて御飯がフックリ出来ません。手桶へ水を汲んで蓋の上へ載せておく位です」大原「何《な》にしろ今日の飯には閉口しました。お負けに味噌汁が淡《うす》くってお湯を呑むようで味も何もあったものでない。これにも弱りましたよ」お登和「味噌汁の淡いのはしようがありません。全体料理の心得に味噌汁は濃い加減に立てろ、吸物は淡い加減に立てろという事があります。味噌汁の濃いのはお湯を注《さ》して淡くする事が出来ますけれど淡いのは始末になりません。吸物の淡いのは食塩を加えて直ぐに味を直せますけれども鹹過《からす》ぎたのへお湯を注すとまるで味が抜けてしまいます。鹹《から》い田舎味噌は摺鉢で摺る時少しばかりお砂糖を交《まぜ》ると美味しくなります。しかしそれは惣菜で上等のお料理には鰹節《かつぶし》で味を出さなければなりません」と得意の料理談になりければ我れ知らず腰を据えぬ。大原はいつまでも腰を据えられたし。

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